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コラム

人生を変えたスクラム「選択に後悔はない」
京都大学ラグビー部コーチ志村大智

京阪電車で大阪から京都に向かうと、祇園四条を過ぎ、終点が出町柳駅である。
地上に出ると「鴨川デルタ」と呼ばれる三角州があり、東に五山送り火で有名な大文字が見える。
そこから北へ歩いて10分ほどのところに酒店の「株式会社なおかつ」はある。
訪れた日は突然の雷雨に見舞われた。
ちょうど電車を降りて地上に上がると、なおかつ代表でラグビー元日本代表の中村直人さんが「傘持ってきてないでしょう」と車で迎えに来てくれた。
店の近くで待っていてくれたのが、中村さんの誘いで入社した志村大智(京都大学ラグビー部コーチ)さんだった。
ガッシリとした体格、日に焼けた姿。
「自分の選択に後悔はないですね」
笑顔で素直な胸の内を話してくれた。
京都大学から同大学院の農学研究科で学び、キリンビールで生産管理などの仕事に就いた。
コロナ禍だった3年前に退社し、学生時代に慣れ親しんだ京都に戻ってきた。
人生の大きな決断。
振り返れば、あの日に組んだスクラムが人生を変えるきっかけになった。
今から8年前の出来事だった。
宇治にある京大グラウンドで、同志社大学とのOB戦があった。
「同志社はフロントロー(FW第1列)全員がジャパンの経験者を集めたらしい。若いヤツじゃないと太刀打ちできんぞ」
そんな理由から、大学院に通っていた志村さんに声がかかったという。
同志社は1番プロップ尾崎章(元サントリー)、2番フッカー弘津英司(元神戸製鋼)、3番プロップ中村直人(元サントリー)という布陣。
京大は1番に志村さんを起用。その対面が1999年ワールドカップを経験した中村さんだった。
あの日のことを、志村さんはよく覚えている。
「向こう(同志社)は『俺ら日本代表やし、京大に押されるわけないやん』って思っていたはずなんです。でも実は、僕らも結構、いけたんですよ。最初はスクラムは押さないルールやったのに、途中からそうもいかなくなった。まあ、まあ、いい勝負やったんです。それで向こうが『おっ、京大にもこんなヤツがおるんか』となった」
試合後にあったアフター・マッチ・ファンクションで酒を交わしながら名刺をもらい「今度、飲みに行こうか」となった。
志村さんがキリンビールに勤務するようになってからも付き合いは続いた。

「40年後が見える道」から「自分を肯定できる道」へ

京都に戻って大学の練習に顔を出した後、ビールを買いに「なおかつ」に顔を出すと、中村さんから「ちょっと話があるんや」と切り出された。
「奥の部屋に連れて行かれ『うちに来へんか?』って誘われました。今思えば、言われた時から気持ちは決まっていた。
キリンでは楽しく仕事をさせてもらっていたんです。でも、これから自分がどういうキャリアを積むのか、決まった道のように見えてしまった。それは間違いなくいい道になるはずなんです。
それでも、40年後の自分が見えている道より、もしかしたら落ちるかも知れないけれど、上がるかも知れないー。人生を振り返った時に、楽しかったと思えるような自分を肯定できる道の方が良かった」
大企業を捨て、京都の酒屋で生きる道を選んだ。
上司に退社する意思を伝えると「もうちょっと考えろ」と止められたという。
それでも決意は揺るがなかった。

学生の頃に川西市ラグビースクールで競技を始めた。
大阪で自営業を営む父は「自分で職業を選べるように」と2人の息子への教育には金を惜しまなかった。
中高一貫の甲陽学院に進む。幼い頃から本を読み、現役で京大に合格した兄の背中を追い続けた。
「子供の頃はしょっちゅう(兄と)ケンカばかりしていました。兄に負けたくない気持ちで、せめて同じ学校に行こうと思いました」
高校にラグビー部はなく神戸市を拠点とする「SCIXラグビークラブ」でプレーし、一浪して京大に合格。
朝から晩まで勉強した時期でも、競技への熱が冷めることなく続けた。
「仲間意識、信頼できる人が増えるのがラグビーのいいところだと思います。人脈は1番のメリットかも知れないですね。僕がこの会社にいるのもラグビーが縁ですから。
走っている時はしんどいし、悪いこともあるはずなんですけど、思い出が美化されてあまり覚えていないんですよ。昔のことは、いい話ばかりをする。それに救われますね」
午前中に京都の繁華街である木屋町や先斗町にビールの樽や瓶を配達し、それが終われば仕入れの発注、経費精算などをこなす。
仕事の傍ら、京都大学ラグビー部のコーチとして指導にも携わっている。
「もう30年以上も2部にいるので、いつかは1部に復帰させたい」
笑顔でそう話す表情は生き生きとしているように見えた。
自分で選び、信頼する人と歩む道だから。

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