森岡亮太 クールな仮面の下のパイオニア精神

華麗なプレーの数々、感情を表に出さない飄々とした言動。独特の世界観を持つ森岡亮太は「天才」と映るかもしれない。それは間違いないが、だが全てではない。2010年に神戸でプロの第一歩を踏み出し、2025年3月に神戸で引退するまでの15年間。「白鳥の水かき」の比喩にたとえられるように、優雅さを漂わしながら、水面下では足を動かし続けた。【スポーツニッポン新聞社、飯間健】
衝撃受けた2014.10.14
2014年、冬。
「Jリーグでどれだけ評価されても、世界との差は埋まらない」
そう心に刻み、たった一人で海を渡った。
同年10月14日、シンガポールで開催された親善試合ブラジル代表戦。日本代表の一員として立ったピッチで、思い知らされた。荒れたピッチや慣れない環境で苦労した自分たちと違い、ブラジル代表はいとも簡単に順応していた。ネイマールにはハットトリックも決められた。ど
この体験が彼に火をつけた。海外挑戦こそが自分のサッカー人生を意味あるものにすると感じた瞬間だった。
年俸10分の1の挑戦 ― ポーランドでの孤独
神戸では背番号10を背負い、クラブの象徴にまで成長していた。当然、好条件で延長オファーが届いた。だが、それを断った。選んだのはポーランドのシロンスク・ヴロツワフ。提示された年俸は日本のオファーの10分の1だった。
今でこそ森下龍矢(現ブラックバーン)やMF横田大祐(現ハノーファー)ら多くの日本人選手の移籍先として候補に入り、その後のステップアップも果たせるリーグとして認知されているが、当時はキャリア絶頂期を迎える若手の選択肢に入るリーグではなかった。お金でも環境でもない。その一歩を踏み出すことに意味があった。
英語もポーランド語も話せず、通訳もいない。フィジカルで圧倒するサッカーに自分の技術が埋もれ、監督交代でベンチに追いやられた。メンタルが削られ、孤独に押しつぶされそうになる日々もあった。その極限の状況が新しい思考を与えた。
「今できることを探す」
「感謝できることを見つける」
小さくてもポジティブな要素を見つける。それを大きくしていく。
そう奮い立たせることで、再びピッチで輝きを取り戻していった。

(ヴロツワフ時代の森岡)
順応とケガとの戦いーベルギーでの光と陰
ポーランドで1年半プレー。計51試合15得点11アシストをマークして、17年6月にベルギーへの飛躍を遂げた。
ワースラント・ベベレン、アンデルレヒト、シャルルロワ――移民の多い社会に馴染み、英語が通じる環境に救われた。17年には3年ぶりに日本代表にも選出された。18年1月にはベベレンから国内屈指の名門アンデルレヒトへの移籍も果たした。
サッカー人生としては軌道に乗っていたが、新たな壁が待っていた。
アンデルレヒトでは膝の大ケガで半年間離脱。シャルルロワでは神経痛に苦しんだ。「自分の身体なのに、思うように動かない」。全力で走ることすらできなくなっていた。
現地メディカルスタッフとも相談しながら回復に努めてきたが、コンディションは戻らないまま。ただ試合に出続けた。そこで思うようなパフォーマンスができなくても、ピッチに立つ以上は言い訳をしない。必死に戦い続け、そして2024年夏に決断を下した。
日本帰国、そして静かな引退
懇意にしているトレーナーの下で定期的な治療を行うため、8年半ぶりのJリーグ復帰を模索した。複数のクラブが興味を持ってくれたが、最も熱心だったのは古巣・神戸。復帰戦となった9月の天皇杯準々決勝・鹿島戦では鮮烈な右足ボレーを叩き込んだ。
ケガは完治した。だが高揚感が薄れていたのも事実だった。「世界レベルの選手になることを目標としていた自分に嘘は付けない」。サッカーに育ててもらった人生。サッカーに失礼がないようにケジメを付ける時だった。25年3月、静かに現役生活に幕を下ろした。日本代表の国際Aマッチウイークにも、Jリーグの試合日にも重ならないように発表したのは、森岡の配慮だった。
足跡
日本人選手がまだ少なかったポーランドで、異国の文化と孤独に立ち向かった。
ベルギーで移民社会の現実を体感し、ケガと戦いながらもプレーを続けた。
単なる技巧派MFではない。未踏の地に足を踏み入れる勇気や苦境を打破するマインド。めまぐるしく変化する状況で、最良の選択をしていく決断力を持っていた。
静かだが、確固たる覚悟があった。
その生き様は、挑戦するすべての人にとっての道標である。
(写真は本人提供)