85年阪神日本一を経験した元投手が子供たちに伝えたいこと〜中田良弘さんインタビュー(1)
プロ野球の阪神で1985年に球団初の日本一に貢献した中田良弘さん(デイリースポーツ評論家)は、兵庫県西宮市で野球教室「NAKADA28 STADIUM」を開いている。1981〜85年にかけて18連勝を記録した投手が子供たちに教えていることは、型にはめるのではなく、心から野球を楽しむことだった。
「生まれ持ったものを生かしながら野球を好きにする」
阪急電車の苦楽園口駅から西へ10分ほど歩いたところに「教室」はある。
マンションの3階。10畳ほどの広さの部屋だった。
「このくらいがちょうどいいんですよ。距離があるところで投げるとボールの行方を追ってしまう。ここだとフォームに集中できる。大事なのは下半身の使い方。下から上に伝わるようなイメージになると自然と上(腕)が付いてくる」
午後4時に子供たちがやってくる。
マンツーマンで約1時間。対話をしながら「投げる」「打つ」の基本動作を教えていく。
「少年野球を見ても間違った教え方をしていることもあるだろうし、その子、その子で体格や性格もある。決めつけずに良さを引き出してやることが大切なんです。1対1だと『これはどうや?』『ほな、こっちならどうかね?』などと向き合いながら教えることができる。本来は『こうした方がいい』というもの(固定観念)があっても、体力的なことや性格を見ながらやった方がいい。生まれ持ったもの(個性)を生かしながら、(野球を)好きにしてやることが1番なんです。『明日試合やねん!』って目を輝かせながら、ウキウキしている姿を見ると、そういうのが大切やし、少しでも活躍できるようにしてあげたい」
その日は小学3年の男児が教室に来ていた。
踏み出す軸足、つま先と膝の向きを意識した投球動作を終えると、ショートバウンドの捕球へと練習メニューが進んだ。
うまく捕れれば「いいじゃないか!」と褒めてやる。
「それを2球、3球とできるようになれば、もっとうまくなるぞ」
後逸すれば「迷ったら前に出てみろ」「ショートバウンドを捕るのは止まったらダメなんだよ」と優しく伝えた。

「怒りながら型にはめてしまう」のはNG
横浜高校から進んだ亜細亜大学を中退し、日産自動車を経て80年ドラフトで1位指名を受けて阪神入り。
81〜85年にかけて18連勝を達成し、85年には先発、リリーフで12勝を挙げる活躍。
チームの21年ぶりリーグ優勝、初の日本一に貢献した。
輝かしい経歴を持つ中田さんでも「やめようとしたことは何回もあるよ」と本音を漏らす。
高校時代のほろ苦い経験が、子供たちを指導するようになった今、生きている。
「いい選手がたくさん辞めていくのを見てきたんです」
高校に入ると、野球部の同学年は140人もいた。73年の選抜で初出場初優勝の快挙を達成した直後とあって、甲子園を夢見た有力選手がこぞって横浜高の門を叩いた。
寮は学校の敷地内にあり、プールの下にある部室に寝泊まりした。6畳ほどの部屋に6人。
「練習もきつかったけど、上下関係はもっときつかった。部室でよく正座をさせられました」
1人、2人と夢を諦め、部から離れていく。140人いた同じ学年の選手は、3年になると「20人いたかどうかになっていた」と振り返った。
「少年野球でもいまだに(指導者に)怒られながらやっているところがある。その指導者に思い出して欲しいんです。『自分が少年野球をやっていた時に、それができたんか?』とね。ちょっと野球をかじっている人が『こーしろ、ああしろ!』と怒りながら型にはめてしまう。それじゃあ、嫌いになってしまう。(学生時代に)いい選手が辞めていくのを見るのが嫌やったんです」
投球フォームを教えていた小学3年の子に中田さんは「将来、何になりたい?」と尋ねた。
少し考えてから「プロ野球選手になりたいです」と答えた。
「よ〜し。それじゃあ、阪神タイガースで活躍する選手になるんやぞ!」
その子は笑顔になり、今までで1番いいボールをネットに投げ込んだ。(取材、構成=SUNLOGUE編集部)